能(喜多流)

 作者…不詳
 季……春(一円)
 所……近江・栗津の原

 木曽の僧(ワキ)が都へ上がる途中、粟津の原で一人の女(前シテ)に出会う。
女は木曽義仲の霊をまつる社に参り、涙を流し僧に義仲の霊を慰めてくれるように頼むと、夕暮の草の陰に消えてゆく。
〈中入り〉
 僧は参詣に来た里の男(アイ)から、義仲の最期のことや巴御前の事などを聞かされる。僧が弔いをしていると、武装した巴御前(後シテ)が、長刀を持って現れる。義仲の最期を語り、又自分の戦いぶりを見せる。
巴は自害した義仲の枕元から、小袖と小太刀を持って、涙ながらに木曽へ逃れたことをのべ、回向を頼み消える。
修羅能で、女性を主人公とする唯一の作品です。

棒縛り

狂言(大蔵流)素破物

 主人が太郎冠者に、次郎冠者(シテ)を縛りつけるので手伝えと言う。理由もわからず太郎冠者は、彼はこの頃、棒を稽古しているので棒を使わせ、そのすきに縛ろうと知恵を出す。呼び出された次郎冠者が棒を使って自慢げにしている所を、示し合わせた二人は次郎冠者の両手首を棒に縛りつけてしまう。案山子の様な姿を見て笑っていた太郎冠者も主人に後手に縛られてしまいます。
 主人は何時も自分の留守に二人が酒を盗み飲むによって、今日は縛っておいたと理由を明かし外出します。
 残された二人は、やはり酒が飲みたい。二人で協力すれば何とか酒が飲めないかと思案し、盃が持てることを思い出し酒を飲み始めます。酒を飲めば謡や舞も披露したくなって段々と楽しく愉快な酒盛りになってゆきます。
 用事をすませ帰ってきた主人は賑やかな笑い声に驚き、腹を立てた主人は、また酒を盗んで飲みおったと二人を打擲しようとするが次郎冠者は逆に棒を使って主人をおどし追い廻します。



箏曲

曲名は「乱輪舌」(みだれりんぜつ)とも言う。
俗箏の創始者、八橋検校の作曲と伝えられるが、それ以前にあった「りんぜつ」を原型とし、それを拡大し手を加えたものが、現行の旋律になったらしい。
古典に少ない純器楽曲の一つで、いわゆる段物形式ではあるが、他の段物のように各段何拍子と定められたものでなく、より自由な形で作られているところから「みだれ」と呼ばれるようになった。
(また、演奏速度の緩急がはげしく、即興的変化に富んでいるので内容は森林に降る雪の情景を描写 したものと言われている。)
本手そのものが独奏曲としてきわめて完成度の高いものであるが、この替手との二重奏も、それぞれの特徴ある主題のからみ合いや発展の方法などすぐれていて、まれにみる古典の合奏曲である。

箏曲について

 箏曲とは、箏を主体とする音楽を指しますが、今日では八橋検校(1614〜1685)以降のものを普通 「箏曲」と呼んでいます。
 伴奏として箏を弾きながら歌を唄うのが本来の形式で、古典の曲目ではそれが圧倒的に多いですが「六段の調」のような箏独奏曲、「乱」のような箏の高低二重奏曲のように歌なしで箏のみで弾く純器楽曲も古くから存在し、近代以降の作曲ではむしろそれらが主流を占めつつあります。
 生田検校(1655〜1715)以後、主に関西で地歌を交流しはじめ、江戸時代中期になるとそれまでの独奏・独唱(斉奏・斉唱)から三味線、胡弓、尺八などの合奏が本格的になり、明治維新以降も新しい方向に発展し続け今も発展性のある日本音楽の一つになっています。
「琴」と「箏」…両者ともに「こと」と読むが、琴と箏は別種

◆琴…「きん」の「こと」と言い絃が少ない。
 一〜七絃、墳墓から十絃の琴も出土している。
 義爪は用いず、指で絃を彈ずる。
 「柱(じ)」は立てない。左手の小指を除く四指で絃を押さえる。
◆箏…「そう」の「こと」と言い十三絃の長調。
 可動の「柱(じ)」で調絃。義爪(右手三指に着用)で奏する。
 大正時代以降、多絃箏が考案され、十七絃、二十絃の箏がある。